飯南町の歴史

平成

1989年~

平成の大合併の流れを受け、平成17年1月1日、赤来町と頓原町が合併し、現在の飯南町が発足しました。

昭和

1926年~1989年

昭和32年には赤名町(赤名村と谷村が合併)と来島村が合併し赤来町、頓原町と志々村が合併し頓原町が誕生しました。

明治時代

11868年~1912年

明治22年、飯南町域の2つの町と9つの村はそれぞれ合併。赤名村、谷村、来島村、頓原村、志々村となりました。江戸時代から明治時代にかけてこの地域の重要な産業のひとつが製鉄業であり、たたら製鉄が大規模に行われました。

江戸時代

1603年~1868年

江戸時代、銀山街道が通過する赤名宿と周辺の村々には、石見銀山で採掘された銀・銅を次の宿場まで荷継する助郷役が課されていました。この課役は村人にとってとても重く、荷継負担軽減を求める訴えがたびたびおこされました。

戦国時代

1493年~1573年

大内氏、毛利氏、尼子氏などの勢力争いは、三国の国境に位置するこの地域をたびたび戦場としました。1542年からはじまる大内氏の出雲遠征の際には、尼子方の赤穴氏と大内軍との間で、瀬戸山城を舞台に攻防戦が繰り広げられました。

奈良時代

710年~794年

飯南町に関する最も古い文献資料は奈良時代に成立した「出雲国風土記」です。これによると、現在のほとんどの町域は当時の来嶋郷と波多郷に属し、来嶋郷の中心は現在の飯南町野萱付近にあったと推定されます。

弥生時代

紀元前6世紀~3世紀

稲作が急速に日本列島に広がった弥生時代、飯南町の遺跡からも石包丁や鉄の鎌が出土し、米作りが行われていたことがわかっています。

縄文時代

~紀元前6世紀

飯南町に人が住み始めた時期は定かではありませんが、三瓶山麓の縄文遺跡からはおよそ1万年前の土器が出土しています。三瓶山の度重なる噴火に遭いながらも、この地に住み続けた人々がいたことを物語っています。